フランケンシュタインの恋:原案小説と共通する「深いテーマ」

日曜夜10時30分から放送されているドラマ「フランケンシュタインの恋」。
レトロでメルヘンチックな雰囲気や、綾野剛さん演じるピュアな怪物に母性を鷲づかみされてしまいますね~。

しかし、この物語の本質は別にあるようです!

今回は、このドラマの原案になっている小説「フランケンシュタイン」を紐解きながら、ドラマとの違いや共通点について考察してみたいと思います。

小説「フランケンシュタイン」とは?

「フランケンシュタイン」は、イギリスの小説家メアリー・シェリーが1818年に発表したゴシック小説です。

物語は、北極探検隊のウォルトン隊長が、北極海で助けた男性ヴィクター・フランケンシュタインの体験談を聞くという形で始まります。

怪物を創ったのは、博士ではなく大学生

科学者を志す大学生だったヴィクター・フランケンシュタインは、自らの手で「理想の人間」を創造するという野心に駈られ、死体をつなぎ合わせて“人造人間”を創り出すことに成功しました。

しかしその容貌の醜さに耐えられず、ヴィクターは怪物を捨てて逃げ出してしまいます。

フランケンシュタインという名前は、怪物の名前ではなく創った人の名前だったんですね。しかも彼は大学生だったため、実は博士ではないんです!

ドラマでは、深志研太郎博士が生命を再生させるという新種の菌を創り、死体に菌を植え付けて“怪物”を生み出しました。その後、博士は怪物に「おまえは人間に近づいてはいけない」と言い残し、亡くなります。博士は怪物を守るためにそう言ったのでしょうが、これは心を持った怪物にとっては死ぬのと同じくらい辛いことですよね……。

怪物は、本当は善良で頭が良かった

怪物は数ヶ月で複数の言語をマスターし、ゲーテやミルトンを愛読します。
醜さゆえに誰からも愛されない怪物でしたが、ただ一人、目の見えない老人だけは怪物を理解し、こう言います。

「私は目が見えないが、あなたの言葉には何か誠実だと思わせるものがある」

老人は怪物に「あなたは誰ですか?」と尋ねます。
しかし、怪物には答える名前がありません。

怪物は知能が低くて凶暴なイメージだったのですが、本当は善良だったんですね。老人の言葉は、怪物の真実の姿を表していると言えます。
ドラマでも、怪物は名前を与えられていませんでした。
そこで、二階堂ふみさん演じる津軽継美が、とっさに「深志研」と名付けます。
小説では、怪物は名前を与えられないままという悲しい結末なので、名前をもらえてよかったです。

醜さゆえに疎まれる怪物

しかしこの老人もまた、相手が醜い怪物だと聞かされると、掌を返したように態度を変えます。人間の家族と友達になりたい、という彼のささやかな願いは叶いませんでした。

小説では、怪物は「外見が醜い」という理由だけで、いわれのない迫害を受け続けます。人間を多面的に見るという点においては、この時代よりも現代のほうが進歩していると思いたいです。
ドラマでは、綾野剛さん演じる怪物は「人間じゃない」ことに悩みながらも、優しい人たちと関わることで人間らしく成長していきます。ほっとしますね。このまま何事もなければいいのですが……。

怪物が、“本物の怪物”になった理由とは?

怪物を生んだヴィクター・フランケンシュタインは、怪物から「パートナーとなる異性を創ってほしい」と要求されます。

しかし、怪物を増やすことに良心の呵責を覚えたヴィクターは、もう少しで完成というところで破壊します。

パートナーを破壊された怪物は怒り狂い、ヴィクターへの復讐を誓います。
そして次々とヴィクターの家族や親しい人間を殺します。

怪物は、「パートナーができたらもう二度と人間の前に姿を見せない」と誓っていました。ヴィクターの行為は許しがたい裏切りだったし、彼にとっては恋人を殺されたも同然だったのです。

ドラマでは、怪物と継美の恋が描かれますが、継美は重い病に侵されているので心配です。悲劇にならないことを願います。

怪物のその後は、誰も知らない

ヴィクターは怪物を殺すため、怪物を追って北極海へ向かう途中、ウォルトン隊長に助けられたのでした。ヴィクターは、ウォルトン隊長に「怪物を殺してほしい」と頼み、息絶えます。

ヴィクターの死を前にした怪物は、嘆き悲しみ、北極海に消えていきました。
怪物にとってヴィクターは、復讐の相手であり、父親であり、自分に名前をくれる唯一の人でもありました。

ヴィクターは、名を上げようと野心を抱くウォルトン隊長に「野心を捨てて平穏な生活の中に幸せを見つけなさい」とも言い残しています。

後世の映画やパロディが作り上げたイメージ

1818年(日本では江戸時代)に原作が発表されてから今日にいたるまで、数々の映画や小説、パロディなどが繰り返し作られました。

その都度アレンジされた結果、「フランケンシュタイン」=“恐怖の怪物”というイメージが定着したようです。

ドラマ「フランケンシュタインの恋」は、定着したイメージを壊そうとしているようにも思えますね。

フランケンシュタイン(1931年)

フランケンシュタイン(1994年)

フランケンシュタイン(2014年)

ヴィクター・フラケンシュタイン(2015年)

スポンサーリンク

小説とドラマの違いと、共通点

深志博士の言葉は、現代を描いたドラマならでは

小説は、科学の功罪を問うものであり、人が生きる意味を問う物語でもありました。
ドラマ第2話で、深志博士が怪物に言います。

「いいか、人間だけが生命の在り方だと思ったら、大間違いだ」

これはすごく現代的だなあと思いました。
小説「フランケンシュタイン」が発表された時代には、こういう考え方はなかったんじゃないかな……。

怪物を創ったヴィクターは、神に背く行為(人が人を創る)を犯すという罪悪感や、野心によって身を滅ぼしたという後悔はあったけれど、人間以外の生物が人間と同等という平等意識は、なかったと思います。

“怪物”が意味するものとは?

小説「フランケンシュタイン」の中で、ミルトンの「失楽園」の一節が引用されています。

創造主よ、私は、土くれから人間の形にしてくださいと、あなたに頼みましたか?
暗闇から私を導き出してくださいと、懇願したでしょうか?

これは小説のモチーフにもなっているのですが、とても重いですよね。

「フランケンシュタイン」というと、人間が怪物に襲われるというホラーの印象が強いのですが、もともとの小説には意外と深いテーマが隠されていました。

怪物は、「人」ともとれるし、「子供」ともとれるし、「人間の醜い欲望」や「悪意」、「人間社会が排除しようとしてきた弱者」ともとれます。

ドラマ「フランケンシュタインの恋」が描こうとしているのは、怪物と人間の恋ですが、そこには密かに重いテーマが絡んでいます。

“怪物”を生み出すものとは何か

ドラマの第3話で、主人公が通う研究室の教授と稲庭のこんな会話がありました。

「そもそも人間と普通に生活していれば、菌を取りこまずに生きることはできない」
「その通りだ。空気中にだって無数の菌が漂っている。それは普通の人間も同じだと言えるがね」
「でも普通の人間は、キノコのように菌の胞子を外に撒いたりはしない」

“菌”が、怪物を生む「悪意」や「欲望」や「社会」を表していると考えると、

怪物は特別な存在ではなく、誰でも怪物になりうる。
怪物と、怪物ではない人の違いはなんなのか?

それを探っているようにも思えます。

小説も同じで、怪物は生まれたときは善良でした。
人間よりも人間について深く考え、悩み、学ぼうと真摯に向き合っていたのです。

しかし、人々から迫害を受け、創造主であり父親であるヴィクターに裏切られ、本物の怪物に変化してしまいます。怪物を生み出すものとは何かを、考えさせられる物語になっているのです。

“怪物”を受け入れようとする継美

原案の小説「フランケンシュタイン」と、ドラマ「フランケンシュタインの恋」の決定的な違いは、ドラマには怪物を理解しようとする人たち、怪物を怪物とは思わずに受け入れようとする人たちがいることです。

最後に、第3話で印象に残った継美のセリフを残しておきます。

私はこのキノコを、気持ち悪いとか、汚らわしいとか、恐ろしいとか、そういうものにはどうしても思えないんです。
私にはこのキノコが、とても綺麗なものに思えてならないんです。
はっきりいうと、好きなんです、このキノコが。
もし、このキノコがあなたの心だとしたら、あなたは人間に恋をしてもいいと思います。
人間と一緒に生きてもいいと思います。
その心が、あなたにはあると思います。


新着記事を読む?

連続ドラマW「60 誤判対策室」 「60 誤判対策室」第4話|死刑執行まであと60分 土曜ナイトドラマ「おっさんずラブ」 おっさんずラブ第6話|「好きじゃない」という告白