映画「生きてるだけで、愛。」のあらすじと感想です。
原作がすごく面白かったので映画も期待して視聴しました。
期待に違わず素晴らしかったです。
趣里さんの渾身の演技に震えました。
ジャンルは一応“恋愛映画”になりますが、わたしが揺さぶられたのは恋愛に限らない部分だったので、わたしにとってのこの作品は“NOT恋愛映画”でした。
監督は、本作が長編デビュー作となった関根光才さん。
16ミリフィルムのざらついた質感が、生身の人間の心の手触りを思わせます。
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作品概要
- 製作国:日本
- 上映時間:109分
- 公開日:2018年11月9日
- 原作:本谷有希子『生きてるだけで、愛。』
- 監督・脚本:関根光才
- 音楽:世武裕子
- 主題歌:世武裕子「1/5000」
予告動画
原作について
この映画の原作は、本谷有希子さんの小説『生きてるだけで、愛』(2006年刊行)です。芥川賞、三島賞の候補にもなりました。
文庫本100ページ強の中編作品。
最初の数ページ読んだだけで、作品世界に引き込まれました。
寧子の一人称視点で語られるのですが、軽妙な語り口が絶品なんです。
もしストーリーがなかったとしても、たぶんずっと読んでいられる。
それくらい小気味よくて、ノリのいい文章。
そのせいもあってわたしはこの作品にあまり暗さを感じなかったし、寧子にも嫌悪感を抱きませんでした。元カノの安堂も、イタリア料理店の元ヤン夫婦も、けっこう痛くて笑える。
でも津奈木だけが笑えなかった。
原作の中で唯一「ちょっとよくわからない」登場人物だった津奈木。
映画では、その津奈木の側のストーリーも掘り下げられていて、面白かったです。
津奈木の描き方の違いが、映画の結末を少し違った印象にしていました。
文庫本の表紙になっている葛飾北斎『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」は、映画には出てきませんでしたが、原作では重要な意味を持つモチーフとして登場します(詳しくは後述)。
登場人物(キャスト)
寧子(趣里)
鬱病と過眠症に苦しむ25歳の引きこもり女子。仕事をしても続かず、3年前に合コンで知り合った津奈木の家に転がり込んで一日中ダラダラして過ごしている。不器用で感情の起伏が激しく、時々奇行に走る。
津奈木(菅田将暉)
寧子の同棲相手。「週刊サタデーナイト」の編集者。作家を目指していたため家には大量の本が並んでいる。寧子の理不尽な言いがかりや要求にも反論することなく、無表情に受け流す淡泊な男。
村田(田中哲司)
カフェバーの店主。安堂の頼みで寧子をバイトとして雇う。鬱病から抜け出せない寧子を根気強く見守る。
真紀(西田尚美)
村田の妻。寧子の鬱病に理解を示し、優しくフォローする。
磯山(松重豊)
「週刊サタデーナイト」の編集長。芸能人の下半身事情にしか興味がない。
美里(石橋静河)
「週刊サタデーナイト」の編集者。津奈木の同僚。過去に自分が書いた記事で女優を自殺に追い込んだことがある。
莉奈(織田梨沙)
カフェバーの店員。引きこもり経験がある。失敗ばかりしている寧子に優しく接する。
安堂(仲里依紗)
津奈木の元カノ。電車の中で偶然津奈木を見かけ、尾行して住所を突き止めた。津奈木とヨリを戻すため、寧子に自立させて津奈木の部屋から追い出そうとする。
あらすじ
無職で引きこもり気味の寧子(趣里)は、3年前に合コンで出会ったゴシップ雑誌の編集者・津奈木(菅田将暉)の部屋で同棲生活を送っている。躁鬱病の寧子は自分の感情をコントロールできず、どうにもできないもどかしさを津奈木にぶつけていたが、津奈木は怒りもせず笑いもせず無表情に受け流していた。
津奈木は配属された「週刊サタデーナイト」で芸能人のゴシップネタを記事にする日々を送っていた。仕事にやりがいは見いだせず、自分の記事がもとで女優が自殺したことに苦悩する同僚・美里(石橋静河)の言葉も適当に受け流す。自己主張しないことで他人との関わりを断っていた。
ある日、寧子の前に津奈木の元カノ・安堂(仲里依紗)が現れる。安堂は「津奈木とヨリを戻したい」と言い、寧子を自立させて津奈木の部屋から追い出すため、無理やり知人が経営するカフェバーのアルバイトを紹介する。
寧子は半ば強制的にカフェバーでのバイトを始めるが、鬱に理解を示し温かく見守ってくれる店主の村田(田中哲司)や真紀(西田尚美)、かつては引きこもりだったという莉奈(織田梨沙)たちの優しさに触れ、働くことに喜びを見いだすようになる。
寧子は津奈木にバイトの話を聞いてもらおうとするが、疲れ切った津奈木は真剣に耳を傾けようとしない。働きたいという気持ちはあるものの、襲いかかる眠気にあらがえず、遅刻を繰り返す寧子。村田に「トイレで寝てるだろ」と指摘された寧子は、バイトを休むようになる。
津奈木は芸能人のゴシップネタの代わりに美里が書いた東京五輪のボツ原稿を無断で入稿し、編集長の磯山(松重豊)に叱責される。磯山に前の原稿データが入っているパソコンを奪われそうになった津奈木は、パソコンを窓に向かって投げ捨てる。津奈木はクビを言い渡され、謝る美里に「俺ももう嫌気が差してたから」と本音を漏らす。
寧子は安堂にたたき起こされ、久しぶりに店に顔を出す。村田や真紀は無断欠勤した寧子を怒ることなく受け入れ、「家族のようなものじゃない」と寧子を励ます。村田に「まだ若いんだから、必ず立ち直れる」と言われた寧子は涙を流す。
寧子は何気ない会話の中で「ウォシュレットの水がどこに飛んでくるかわからなくて怖い」と話し、当然共感してくれるものと思っていた村田たちの誰からも理解を示されず、愕然としてしまう。店のトイレに閉じこもり、スマホで津奈木に助けを求める寧子。
だがスマホを落として壊してしまい、パニックに陥った寧子はトイレの中で暴れ、便器を壊して店から逃げ出す。夜の町を走りながら、1枚また1枚と身につけている服を脱ぎ捨てる寧子。寧子を見つけた津奈木は服を拾い集めながらその後を追いかける。
アパートの屋上で、全裸になって空を見上げる寧子。寧子は津奈木に、なぜ自分と同じくらい激しい感情をぶつけてくれないのかと問う。今度こそ大丈夫だと思っていたバイトがうまくいかず、他愛ないことで大切なものを壊してしまう自分に絶望して泣き出す寧子を、津奈木は黙って抱き締める。
「ねぇ、なんであたしって、生きてるだけでこんな疲れるのかなぁ」
「あんたが別れたかったら、別れてもいいけど。あたしはさ、あたしとは別れられないんだよね、一生」
寧子は自分のどこが好きだったのか、津奈木に尋ねる。津奈木は初めて会った飲み会で寧子が言った「自分の何かがみんなに見抜かれてる気がする」という言葉に共鳴したこと、意味もなく夜の町を走る寧子をきれいだと思ったこと、意味もなくきれいなものをまた見たいと思ったことを語る。
屋上に安堂が現れるが、津奈木は安堂を無視して寧子と共に屋上から立ち去る。部屋に戻った2人は暖房を入れようとしてブレーカーを落としてしまう。暗闇の中、津奈木は寧子を抱き締めて「おまえのこと、本当はもっとちゃんとわかりたかったよ」と告げる。
感想(ネタバレ有)
寧子にも津奈木にも共感できた
寧子のキャラクターのえぐみが強烈なので、受け入れられない人も多いだろうなぁと思います。
原作は寧子の一人称で、彼女の言動とは真逆の本心や、心の中でほとばしる感情が雄弁に(ユーモラスに)語られるのですが、映像で表面的な言動だけを見ていると本当に〝感じの悪いワガママ女〟ですもんね。
原作にはなかった津奈木のストーリーが描かれたことで、より客観的に2人の関係を見ることができ、原作では一切感情移入できなかった津奈木の気持ちにも寄り添える内容になっていました。
わたしは寧子にも津奈木にも共感できるのですが、みなさんはどうでしたか?
荒々しい波を求めて
頻繁に落ちるブレーカーや、どれだけ寝ても足りない睡眠は、寧子の生き方が「許容量を超えている」ことを表していました。
きっと寧子も周りから言われてるんじゃないかなぁ。
「もっと力を抜けばいいのに」「いつもそれだと、しんどいでしょ?」と。
でも、できないんだよね。
だってこれが自分の〝普通〟だから。
自分と同じ「最大出力」を相手に求めてしまう気持ちも、よくわかります。
昔はそれが「無理強い」だとは気づいていなかったから、なぜ人が自分から離れていくのか、さっぱりわからなかったけど。
寧子は波打ち際で佇むような関係ではなく、沖合の荒々しい波に飛び込んでいって揉みくちゃになるような関係を望んでいたんだと思う。
でも、津奈木はそんな関係を望んではいなかったし、きっと沖合の波を見たこともない。
そして寧子は、自分の海に誘うばかりで、他人の海に入っていこうとは思いもしていないんだよね。
寧子と私が辿り着く場所
寧子が感じていること、他人に対して思っていることは、ほとんど共感できました。
ただわたしは彼女のように感情を吐き出すタイプではないので、そこだけが違う。
「なんであたしって、生きてるだけでこんな疲れるのかなぁ」
という寧子のセリフが、自分と重なって辛い。
声に出しては言わないけどね(そこは津奈木なのよ)。
「あんたが別れたかったら、別れてもいいけど。あたしはさ、あたしとは別れられないんだよね、一生。いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなあ」
このシーンはたまらなかった……。
これ、わたしがどん詰まりになったとき、必ず行き着いた場所。
30代までは、しょっちゅうここに辿り着いて泣いていた。
わたしは一生、こんなわたしと付き合っていくのかって。
ネットも携帯もなかった若い頃は、自意識の檻に囚われていることにも気づかず、こんな場所に辿り着いてしまうのは世界中で自分くらいだと真剣に思っていた。そして絶望した。
原作にはない津奈木の職場での爆発
一方の津奈木は、もう他人とわかりあうことを諦めている。
そしてどうせわかりあえないのなら、誰も自分の海に入ってくるな、と思っている。その海の水がどんな色をしているのかも伝えようとしないし、当然、相手の海に入っていこうともしない。
寧子にはそれが我慢できなかったんだろう。
誰からも理解されなくていいし、誰とも理解しあえなくていい、という津奈木の気持ちもわかる。本当は怖いだけなんだけど。
自分の中の倫理にフタをして、最低だと思う気持ちをごまかして、生活するために仕方なくやりたくない仕事を続けている津奈木の姿に、自分を重ねる人も多いはず。
津奈木がブチ切れて職場のパソコンを窓に向かって投げつけるシーンは、彼が初めて見せた「最大出力」だった。
津奈木から話を聞いた寧子は、彼の中にも荒々しい波があったことを知る。2人の海は、一瞬だけでも繋がっていたのだろうか。寧子が津奈木の「最大出力」を受け止めたとき、2人は少しだけわかりあえたような顔をしていた。
この作品は趣里さんの印象が強く残るけど、津奈木役の菅田将暉さんの引きの演技も素晴らしかったです。
ちなみに原作では津奈木の役職は「編集長」で、職場は一切出てきません。
五千分の一秒でいいから
寧子が屋上で全裸になって津奈木に感情をぶつけるシーンは、わたしには寧子の絶望が伝わりすぎて辛かった。寧子に感情移入せずに客観的に見れば、美しいシーンだったと思う。
上記「原作について」の項でも書きましたが、原作には葛飾北斎の『富嶽三十六景』の中の「神奈川沖浪裏」が重要なモチーフになっています。
あの絵を現代の科学技術で検証すると、五千分の一秒のシャッタースピードで撮影した写真に相当するのだそうで。
寧子は津奈木に、「あたしは一生、誰に分かられなくったっていいから、あんたにこの光景の五千分の一秒を覚えてもらいたい」と言って、全裸の自分の姿を富士山に例えました。
五千分の一秒でいいから、津奈木と繋がりたいと願って。
それに対する答えが、「でもお前のこと、本当はちゃんとわかりたかったよ」だった。
原作の津奈木は波打ち際にとどまったままで、寧子とつながることはなかった。
原作と映画とでは、津奈木の最後のセリフもまったく違った印象を受けます。
映画では2人が一瞬でもわかりあえた瞬間があって、救われました。
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