アガサ・クリスティーの長編小説「ゼロ時間へ」を読みました。
殺人事件が起きる“その瞬間(=ゼロ時間)”に向かって、登場人物たちの人間関係や思惑が少しずつ絡み合っていくミステリー。徐々に高まる緊張感と心理戦が楽しめる、クリスティー中期の名作です。
物語の舞台は、イギリス南部にある海辺の村ソルトクリーク。その断崖の上に建つ屋敷〈ガルズポイント〉に、さまざまな事情を抱えた人たちが集まり、やがて殺人事件が起こります。
物語の面白さは、事件にいたるまでの空気や心の動きを丁寧に描いているところにあります。誰が犯人なのか、何が目的なのか、読み進めるほどに疑念が深まり、最後まで目が離せません。
タイトルの“ゼロ時間”が二重の意味になっているところも面白く、読み終わったあとに「そういうことか」と唸らされました。
探偵役は2人。『チムニーズ館の秘密』『七つの時計』『殺人は容易だ』などに登場するバトル警視と、もう一人は意外な人物です。
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登場人物(ネタバレなし)
カミーラ・トレシリアン夫人
風光明媚な漁村ソルトクリークの崖上に佇む屋敷〈ガルズポイント〉に、30年にわたり暮らす富裕な老未亡人。9年前に夫マシューを水難事故で亡くして以来、親戚のメアリーと生活を共にしている。礼儀正しく品位ある人物だが、内面には強い支配欲と保守的な価値観を抱えている。ネヴィルの元妻オードリーを特に気に入っており、毎年9月には彼女を屋敷に招いている。
メアリー・オルディン
トレシリアン夫人の遠縁にあたる36歳の女性。聡明で控えめな性格。黒髪の前の部分に一筋だけ白髪がある。15年前に父を病で亡くして以来、〈ガルズポイント〉でトレシリアン夫人と共に暮らし、献身的に世話を続けてきた。表立って不満を漏らすことはないが、長年の介護生活の中で鬱屈を蓄積させている。
ネヴィル・ストレンジ
33歳のトップテニスプレーヤーで、スポーツ全般に秀でた万能選手。常に紳士的で爽やかな印象を与える人物。トレシリアン夫人の亡夫マシューは後見人で、〈ガルズポイント〉はわが家のような場所。現在の妻ケイとはカンヌで出会い、「運命」を感じて猛アプローチし、元妻オードリーと離婚後に結婚した。
ケイ
ネヴィルの現在の妻。23歳。人目を引く美貌と激しい気性を併せ持つ、奔放な性格の女性。ネヴィルの先妻オードリーに強い嫌悪感を抱いているが、夫の提案に従い、しぶしぶ〈ガルズポイント〉を訪れる。トレシリアン夫人やメアリーにも反発的で、屋敷内に微妙な緊張をもたらす存在となる。
オードリー
ネヴィルの最初の妻。32歳。物静かで内向的な性格。幼くして両親を亡くし、遠縁のロイド家で育てられた。ネヴィルと離婚後も毎年9月に〈ガルズポイント〉を訪れ、トレシリアン夫人と休暇を過ごしている。耳の傷跡を隠すため、いつも大ぶりのイヤリングを身につけている。
トマス・ロイド
オードリーの親戚で、内向的かつ寡黙な性格の男性。マレーシアでプランテーションを営んでおり、8年ぶりに帰国。オードリーへの想いを胸に、再会を果たす。3年前、兄のエイドリアンを自動車事故で亡くしている。地震による怪我の後遺症で片腕が不自由。
テッド・ラティマー
ケイの幼なじみで親友。25歳のハンサムな青年。珍しい頭の形をしている。ケイに長年想いを寄せており、彼女が〈ガルズポイント〉に滞在する間、近くの〈イースターヘットベイ・ホテル〉に身を置く。裕福なネヴィルやトレシリアン夫人らに反感を抱き、彼らを「お高くとまっている」と見なしている。
ハーストール
トレシリアン夫人に仕える執事。
ジェーン・バレット
トレシリアン夫人に仕える年配のメイド。毎晩センナの煎じ汁を飲むのを習慣にしている。
アリス・ベンサム
トレシリアン夫人に仕えるメイド。屋敷で起きた殺人事件の第一発見者となる。
エマ・ウェイルズ
トレシリアン夫人に仕えるメイド。事件の夜にある人物の“口論”を聞き、バトル警視に話す。
スパイサー
〈ガルズポイント〉の料理人。
トレロウニー
トレシリアン夫人の顧問弁護士。ミッチェル警察署長とは親しい仲。
トレーヴ
犯罪学を専門とする老弁護士で、法曹界の重鎮。トレシリアン夫人の旧友。休暇で〈バルモラルコート・ホテル〉に滞在中、近くにある〈ガルズポイント〉を訪問する。その際、「事故に見せかけて計画的に殺人を行った子ども」の話をする。
アンガス・マクワーター
〈ガルズポイント〉近くの崖から自殺を図り、生還した男性。会社の不正を拒んで職を失い、重労働で体を壊し、妻にも見放された過去を持つ。人生に深く絶望しながらも、再びソルトクリークを訪れ、事件の重要な証人となる。
レイズンビー医師
地元の司法医。
バトル警視
ロンドン警視庁の警察官。大柄な体格と無表情な顔が特徴。鋭い直感を重視し、目にした情報をすぐには信じず、確信を得るまで慎重に見極める冷静さを持つ。甥のジェイムズの家で休暇を過ごしていた最中に〈ガルズポイント〉で殺人事件が発生し、捜査を任されることとなる。
ジェイムズ・リーチ警部
バトルの甥。ソルトクリークに近いソルティントンに住んでいる。バトルとともに〈ガルズポイント〉で起きた事件の捜査にあたる。
ロバート・ミッチェル警察署長
たまたまリーチ警部の家に滞在していたバトル警視に、事件の捜査を依頼する。
あらすじと解説(ネタバレ無)
『ゼロ時間へ』は1944年に発表されたノン・シリーズの長編作品です。
この作品のいちばんの特徴は、「殺人は終着点であり、物語はそのずっと前から始まっている」という考え方です。“ゼロ時間”とは、犯人の計画が完成する瞬間のこと。その瞬間に向かって、物語は不穏な空気をまといながら進んでいきます。
この作品が書かれたのは第二次世界大戦中。戦争の影響で人々の価値観や暮らしが大きく揺れていた時代でした。そんな不安定な空気の中で、クリスティーは人の心が崩れていく“予兆”を描こうとしたのかもしれません。
殺人は突然起こるものではなく、少しずつ育まれていくものだという視点は、人間の心理や社会の構造に対する鋭い洞察を感じさせます。
なぜ、彼らは集まったのか?
物語の序盤は、登場人物たちが海辺の村ソルトクリークに集まる事情が描かれます(ここにも伏線がたくさん!)。
バトル警視は休暇を甥の家で過ごすため。トレーヴ弁護士はいつも泊まっていたホテルが取り壊されてしまったため。トマス・ロイドは親戚のオードリーに会うため。アンガス・マクワーターは人生を立て直すため。
その中でもっとも気になるのが、ネヴィル・ストレンジと新しい妻ケイ、そして元妻オードリーの三人の関係です。ネヴィルは資産家でスポーツマン。若くて魅力的なケイと恋に落ち、オードリーと離婚して再婚しました。
彼は罪悪感を打ち消すかのように、ケイとオードリーを「友達」にさせようと考えます。
オードリーは、毎年9月にトレシリアン夫人の屋敷〈ガルズポイント〉を訪れるのが恒例になっていました。ネヴィルは自分たち夫婦も一緒に行って、みんなで仲良く休暇を過ごそう、と提案します。
正直、無神経にもほどがありますよね。そんな提案、普通なら即座に断られてもおかしくないのに、なぜかオードリーはそれを受け入れてしまいます。そしてこの話を聞いたトレシリアン夫人は、思わず頭を抱えてしまうのです。
これは本当にネヴィルが言い出したことなのか? 誰かが裏で糸を引いているのでは? トレシリアン夫人のこの疑念は、読者の心にもしっかりと残ります。
いったい誰が、何のためにこの“奇妙な再会”を仕組んだのか? この問いが、物語の核心へとつながる大きな伏線になっています。
バトル警視の娘が教えてくれたこと
物語の前半部分には、さまざまな仕掛けが施されています。その中でも、思わずゾクッとしたのが、バトル警視の娘シルヴィアにまつわるエピソードです。
それは、〈ガルズポイント〉で事件が起こる半年前のこと。バトル家に一本の電話がかかってきます。娘のシルヴィアが通う学校からで、「彼女が盗みを働いた」との連絡でした。しかも、校長に問い詰められたシルヴィアは、自分がやったと罪を認めたというのです。
驚いたバトル警視はすぐに学校へ向かい、娘と向き合います。彼は、警察官としての鋭い観察眼と、父親としての愛情をもって、シルヴィアの本心を引き出そうとします。
すると、シルヴィアはこう語り始めました。
「その間、校長先生は刺すような目でわたしをじっと見ていた。頭の中をえぐるような目で。そんなことが続いたあとで、校長先生がとてもやさしく話しかけてきたの――よくわかるわよという感じで――それで――それで、もう耐えられなくなって、わたしがやりましたと言ったの――そしたら、ああ、お父さん! すごく気が楽になったのよ!」
「ゼロ時間へ」より
この言葉に、バトルは娘の無実を確信します。彼女は盗みなんてしていない。ただ、疑われ続けることに耐えられなかっただけだと。無実であることを証明するより、「やった」と言ってしまったほうが楽だった――その心理に、バトルは深く心を動かされます。
この出来事は、物語の本筋とは一見関係がないように見えます。でも、実はここにこそ、やがてバトル警視が直面する“ある人物の罠”を見抜くためのヒントが隠されているのです。
人はなぜ、やってもいない罪を認めてしまうのか。バトル警視がこのとき娘から学んだことは、のちに彼自身が真実にたどり着くための大きな鍵となります。
トレーヴ弁護士が語った「ある事件」
物語の中心は、ネヴィル、ケイ、オードリーの三角関係。そこに2人の男性が加わります。ケイに恋する幼なじみのテッド・ラティマーと、オードリーに恋する親戚のトマス・ロイドです。
9月になり、いよいよ〈ガルズポイント〉に人々が集まります。屋敷の主であるトレシリアン夫人と、その親戚メアリー・オルディンは、ぴりぴりした雰囲気の5人を見守りながら、毎日が気が気でない状態に。
そんなある日、トレシリアン夫人の旧友であるトレーヴ弁護士が屋敷を訪ねてきます。彼は落ち着いた物腰の人物ですが、夕食の席で何気なく語った“ある過去の事件”が、物語の空気を一変させます。
それは、過去に起きた悲しい出来事。ある子どもが、誤って弓矢で人を殺してしまったという事件でした。事故として処理されたものの、トレーヴは「計画的な殺人」と考えていました。子どもは事故に見せかけて、意図的に人を殺した――そう確信していたのです。
そして今は名前を変えて大人になっているであろうその子どもを、「見ればわかる」と彼は断言します。その夜、トレーヴはホテルの部屋で心臓発作を起こし、突然亡くなってしまいます。
トレシリアン夫人の死
〈ガルズポイント〉に集まった人々の間で、張りつめた空気が限界に達しようとしていました。ネヴィル、ケイ、オードリーの三角関係は、もはや修復不可能なほどにこじれてしまいます。
ネヴィルはついに、ケイとの結婚生活を終わらせようと決意します。今もオードリーを愛していることに気づいたネヴィルは、彼女に「もとに戻れないか?」と問いかけます。
しかし、2人の会話を偶然聞いてしまったケイは、「離婚するぐらいなら、あなたとあの女を殺す」と怒りに震えながら言い放ちます。
この騒動を知ったトレシリアン夫人は黙って見ていられなくなり、ネヴィルを寝室に呼びつけて叱責します。
「どうやらあなたはケイと離婚して、オードリーと再婚したいと考えているようね。それはね、ネヴィル、このわたしが許しませんし、そんな話は二度と聞くつもりはありませんよ」
「ゼロ時間へ」より
ネヴィルとトレシリアン夫人が激しい口論を繰り広げた翌朝、トレシリアン夫人の遺体が寝室で発見されます。
そして――バトル警視が〈ガルズポイント〉にやってきます。
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