原作「ゼロ時間へ」ネタバレ解説|タイトルに隠された心理トリック

アガサ・クリスティ「ゼロ時間へ」あらすじネタバレ解説

記事内に広告を含みます

あらすじと解説(ネタバレ有)

バトル警視、捜査を始める

ロンドン警視庁のバトル警視は、甥であるジェイムズ・リーチ警部の家で休暇を過ごしていました。そんな彼のもとに、突然の知らせが届きます。〈ガルズポイント〉の屋敷で、トレシリアン夫人が殺害されたというのです。

地元のロバート・ミッチェル警察署長は、経験豊富なバトルに事件の捜査を託します。こうして、バトル警視は〈ガルズポイント〉へと向かい、捜査を開始することになります。

トレシリアン夫人の殺害状況
  • 右のこめかみを殴られている
  • 凶器は床に落ちていた血の付いたゴルフクラブ
  • 死亡推定時刻は昨夜10時から午前0時の間
  • 争った形跡はなく、夫人の顔には恐怖の表情もない
  • メイドのバレットが何者かに薬を盛られ、意識不明の状態だった

殺害現場と各部屋を冷静に見て回りながら、バトルはふと、ある人物のことを思い出します。

「しかし気になるな。なぜエルキュール・ポアロのことばかり考えているのだろう? それが問題だ。階上で見た何かが、あの小男のことを思い起こさせたのだが、それが何かがわからない」

「ゼロ時間へ」より

捜査が進むにつれ、ネヴィル・ストレンジに疑いの目が向けられます。

ゴルフクラブには彼の指紋が付いており、メイドのエマは昨夜、ネヴィルとトレシリアン夫人が寝室で激しく言い争う声を聞いたと証言します。さらに、ネヴィルの紺のスーツの袖には、夫人の血が付着していました。そして、夫人の死後、遺産がネヴィルに入ることも判明します。

状況だけ見れば、ネヴィルが犯人である可能性は高いように思えました。しかし、意識を取り戻したメイドのバレットが重要な証言をします。

彼女は、ネヴィルが口論のあと屋敷を出て行くところを目撃していたのです。そしてその後、バレット自身がトレシリアン夫人に呼ばれて寝室へ行き、夫人がまだ生きていたことを確認していました。

さらにもうひとつ、テッド・ラティマーの証言により、ネヴィルが昨夜〈イースターヘットベイ・ホテル〉で彼と一緒にビリヤードをしていたことがわかり、ネヴィルのアリバイが成立します。

嫌疑はネヴィルからオードリーへ

「なぜエルキュール・ポアロのことばかり考えてしまうのか」。バトル警視は、ようやくその違和感の正体に気づきます。

ポアロは、物がきっちり左右対称になっていないと気がすまない性格でした。バトルは、オードリーの部屋にある鉄製の炉格子を見たとき、無意識に引っかかりを覚えていたのです。左側の取っ手だけが、妙に光っていたからです。

その取っ手を調べてみると、表面には拭き取ったような痕跡がありました。そして、ネジの部分には血が付着していたのです。それこそが、トレシリアン夫人を殺害した凶器でした。

さらに、オードリーの部屋の窓の外で黄色い手袋が見つかります。左手の手袋には血がついていて、彼女が左利きであることとも一致します。

そしてもうひとつ、ネヴィルの紺のスーツには、オードリーが使っている白粉が付着していました。つまり、オードリーがネヴィルの上着を着て、トレシリアン夫人を撲殺した可能性が浮かび上がってきたのです。

バトルは、オードリーがネヴィルに捨てられたことを深く恨み、彼に復讐しようとしたのではないかと考えます。殺人の罪をネヴィルに着せ、絞首刑に追い込もうとしたのではないか。ネヴィルとケイが9月に〈ガルズポイント〉を訪れるという“奇妙な計画”も、オードリーが発案し、彼に植え付けたのではないか……と。

すべての状況が、オードリーを犯人として指し示していました。こうなると、警察は彼女を逮捕するしかありません。

そのとき、トマス・ロイドが口を開き、驚くべき真実が明らかになります。

三角関係をくつがえす驚きの真実

ネヴィルがオードリーを捨てた――誰もがそう信じて疑わなかった離婚の理由が、実はまったくの誤解だったことが明らかになります。

離婚の原因を作ったのは、ネヴィルではなくオードリーのほうでした。彼女はネヴィルの元を去り、トマスの兄エイドリアンと駆け落ちしようとしていたのです。

ところが、エイドリアンは交通事故で命を落としてしまいます。オードリーはもとに戻ることもできず、ネヴィルは離婚手続きを進めました。オードリーを傷つけないよう、周囲には「自分の心変わりが原因だった」と語って……。

この真実を知っていたのは、ネヴィルとオードリーだけ。しかし、トマスもまた、亡き兄エイドリアンからの手紙によって、すべてを知っていたと告白します。

この告白によって、オードリーがネヴィルに捨てられたという前提が崩れ、彼女の“復讐動機”は消えてしまいます。それでも、バトル警視はオードリーを逮捕しようとします。するとオードリーは、まるで罪を認めたかのような表情で、「むしろほっとしましたわ。うれしいの――終わって!」と言います。

この言葉に、バトルは娘のシルヴィアのことを思い出します。罪をかぶることで楽になろうとしたシルヴィア。オードリーもまた同じ心理状態にあることを悟り、バトルは彼女が無実であることを確信します。

そこへ、もうひとりの探偵役アンガス・マクワーターが登場します。

アンガス・マクワーターの証言

アンガス・マクワーターは、1月に〈ガルズポイント〉近くの崖で自ら命を絶とうとした男性です。けれど、幸運が重なり、彼は肩を骨折しただけですみました。

その後、新しい仕事が決まり、南アメリカへ旅立つ予定でしたが、その前にもう一度“死のうとした場所”を訪れ、自分自身と向き合おうとソルトクリークにやってきたのです。

彼は〈ガルズポイント〉に来る前、崖の上でオードリーと会っています。彼女は自分が殺人犯として逮捕されるかもしれないという絶望の淵に立ち、崖から飛び降りようとしていました。アンガスは「きみを絞首刑にはさせない」と約束して、彼女の命をつなぎとめていたのです。

約束通り、アンガスは〈ガルズポイント〉に現れ、ある重要な証言をしてオードリーを救います。それは、トレシリアン夫人が殺された月曜の夜のこと。アンガスは川の対岸から泳いで渡ってきた男がロープを使って崖をよじ登り、屋敷の窓から中に入っていくのを目撃したと言うのです。

テッド・ラティマーは泳げません。トマス・ロイドは腕が不自由で、ロープを使って崖を登るなんて到底できません。そんなことができるのは、スポーツ万能のネヴィルだけでした。

犯人の正体と動機

トレシリアン夫人を殺したのは、ネヴィル・ストレンジでした。彼は、自分を捨てて別の男を選んだオードリーを激しく憎み、彼女を罰するための復讐計画を立てていたのです。

その計画とは、トレシリアン夫人を殺害し、その罪をオードリーに着せること。ただ殺すのではなく、彼女を絞首刑に追い込み、長く苦しませた末に死に至らせる――それがネヴィルの目的であり、彼が目指した“ゼロ時間”でした。

この計画は、長い時間をかけて周到に準備されていました。最初にあえて自分が疑われるように仕向け、証拠を残す。そして、その証拠が偽物だとわかれば、次に見つけた証拠まで偽物だとは思わない。人間の心理を巧みに突いた、冷酷な罠でした。

ネヴィルは、子どものころから精神のバランスを欠いていました。自分に嫌な思いをさせた人間は、必ず罰を受けなければならない――そう信じていたのです。トレーヴ弁護士が語っていた「事故に見せかけて計画的に殺人を行った子ども」。それは、ネヴィルのことでした。

彼は幼い頃、自分の悪口を言った友人に対して「罰」を下しました。トレーヴは、ネヴィルの左手の小指が右手より短いという身体的特徴から、その子どもがネヴィルだと気づきます。そして、彼にそれとなく事件の話をして警告を与えようとしました。しかしその夜、口封じのためにネヴィルによって命を奪われたのです。

ネヴィルの計画は完璧に見えました。けれど、ひとつだけ誤算がありました。それは、トマス・ロイドが離婚の真相を知っていたこと。彼の証言によって、オードリーの“復讐動機”が消えてしまい、バトル警視がネヴィルに疑いの目を向けることとなったのです。

オードリーを追い詰めた恐怖

オードリーは、ネヴィルと結婚してまもなく、彼に対して恐怖を感じるようになったと語ります。けれど、その理由が自分でもはっきりわからず、ずっと「自分がおかしいのだ」と思い込んでいました。ネヴィルは完璧な紳士だったからです。

恐怖心は日々少しずつ積み重なり、やがて彼女の心を押しつぶすほどに膨らんでいきました。精神的に追い詰められたオードリーは、自分を愛してくれていたエイドリアンと一緒に逃げる決意をしたのです。バトル警視は、エイドリアンの死もまた、ネヴィルが仕組んだ可能性があると言います。

離婚したあともオードリーの心が安らぐことはなく、ネヴィルから「9月に〈ガルズポイント〉で一緒に過ごそう」と提案されたときも、彼女は「断れなかった」と言います。

ネヴィルが巧妙だったのは、「この提案をしたのは自分だ」とわざわざ声高に主張することで、逆に「本当は違うのではないか」と思わせる印象を与えていたこと。それもまた、彼の計算だったのです。

オードリーが彼の思惑に気づいたのは、事件の捜査が始まり、ネヴィルへの嫌疑が晴れたときでした。そのとき、ネヴィルが自分を見てほくそえんでいるのを見て、彼女はすべてを悟ったと言います。

でも、長年にわたる恐怖によって、オードリーの心は麻痺してしまっていました。どうすることもできず、ただ流されるしかなかった。そして、むしろ自分が逮捕されることで、すべてが終わるのだと思うと、ほっとした――そう語ります。

嘘と真実のあいだに芽生えた希望

ネヴィル・ストレンジの自供によって、事件はついに解決を迎えます。けれど、物語はまだ終わりません。

オードリーは、命を救ってくれたアンガス・マクワーターに礼を言うため、彼が泊まっているホテルを訪ねます。そしてそこで、驚くべき事実を知ることになります。

アンガスは、事件の夜に「ロープで崖を登る男を見た」と証言していました。けれど本当は、彼は何も見ていなかったのです。

事件の夜、ネヴィルは川を渡る際にスーツを脱ぎ、岩場の隙間に押し込みました。そこには腐った魚の死骸があり、スーツには強烈な匂いとしみがついてしまいました。ネヴィルはそのスーツをクリーニングに出すため、ホテルの宿泊簿にあった“ある名前”を使って偽名で依頼しました。

その名前こそが、アンガス・マクワーター。アンガスは、誰のものかわからない腐った匂いの染みついたスーツをクリーニング屋で受け取ることになり、疑問を抱きます。

そして、崖の上で自殺しようとしていたオードリーを止めたとき、彼はこう思ったのです。「このスーツの持ち主こそが、真犯人なのではないか」と。

そこから、犯人がロープで崖を登った可能性にたどりつき、〈ガルズポイント〉を訪ねて証拠を探しました。納屋で“湿ったロープ”を見つけたとき、推測が確信に変わりました。それがアンガスの証言の根拠となったのです。

つまり、アンガスは“見た”のではなく、“推理した”のです。そしてその推理は、オードリーを救うことにつながりました。

実は、バトル警視は彼の証言がウソであることを見抜いていました。事件の夜は雨が降っていたのに、アンガスはうっかり「月明かりではっきり見えた」と言ってしまったからです。それでも、バトルはあえてその嘘に目をつぶりました。

アンガスは今夜この地を発ち、明日にはチリへ向けて出航すると言います。オードリーは彼に「私も一緒に連れて行ってほしい」と頼みます。2人は互いの想いを確かめ合い、結婚することを決断します。

長い恐怖と孤独の時間を越えて、ようやくオードリーは“誰かと並んで生きる未来”を選ぶことができたのです。

感想(ネタバレ有)

物語の冒頭、トレーヴ弁護士によって語られる「ゼロ時間」の概念がとても興味深く、すぐに物語の空気に引き込まれました。

舞台となる屋敷に集まる人物たちは、みんな何かしらの事情を抱えていて、元夫婦と現在の妻が同じ空間にいるという設定だけでもすでに不穏。誰もが何かを隠しているように見え、誰もが怪しく思えてくる構成は、さすがクリスティー。

そんな登場人物の中で、ネヴィル・ストレンジはスポーツマンで社交的、誰からも好かれる人物として描かれていて、彼を疑いにくくなっています。でも、実は彼こそがすべての糸を引く黒幕であり、この“信頼できる人物”という仮面が最大のミスリードになっていました。

オードリーは、個人的に強く感情移入した人物。何を考えているのかわからず、“まるで幽霊のよう”と形容されていたオードリーが、物語の中盤からどんどん疑わしくなっていく展開は辛かった。「この人だけは犯人であってほしくない」と思わせる人物が、もしかしたら……というスリル。

バトル警視はポアロやミス・マープルのような華やかさがなく、地味な印象を与えます。なんとなく、彼の推理力を過小評価してしまうところがある。これも、読者の油断を誘う巧妙な仕掛けになっていたんだと思います。

また、無実の人が精神的に追い詰められ、やってもいない罪を認めてしまう場面も印象的でした。冤罪が生まれる構造や、人間の弱さを問いかける描写でもあったと思います。

タイトル『Towards Zero(ゼロに向かって)』の“ゼロ”は、二重構造になっています。表層的な“ゼロ”はトレシリアン夫人の殺害。読者が最初に“ゼロ”だと思い込む事件です。しかし、真の“ゼロ”はそちらではありません。

ネヴィルの計画が完成し、オードリーが死刑に処されるその瞬間。社会的に正当化された形で彼女を葬り、復讐を成し遂げる瞬間こそが、彼にとっての完全なる達成点“ゼロ”でした。

でもその計画は未遂に終わり、“ゼロ”には到達しません。ネヴィルの計画は完璧に見えながら、最終的には崩壊します。人間の欲望や復讐心が、いかに不完全で、自己破滅につながるリスクを内包しているかを浮き彫りにします。

だからこそタイトルは『Towards Zero(ゼロに向かって)』。到達できなかった“ゼロ”への皮肉と、未完の復讐劇を示唆していました。はぁ……面白い。

関連記事

1 2