どうも、夏蜜柑です。
カズオ・イシグロさんの「浮世の画家」を読みました。
1986年にウィットブレッド賞を受賞した、カズオ・イシグロさんの出世作と言われる作品です。
カズオ・イシグロさんがノーベル賞を受賞されたときは大きな話題になりましたが、著作を読むきっかけがなく、今回「浮世の画家」がドラマ化されるということで初めて読む機会を得ました。
飛田茂雄さんの翻訳が素晴らしく、とても読みやすい文章でした。海外文学は翻訳文で躓くことも多いのですが、ほとんど違和感がなく、スムーズに読み進めることができました。
Contents
感想
曖昧な過去の記憶
舞台は、戦後の長崎を連想させる架空の町。
引退した老画家・小野は、周囲から冷たい目を向けられて屋敷に籠もるようになり、自身の“過去”が末娘の縁談にも支障を来すのではないかと思い悩みます。
物語は、小野の一人称によって語られます。
“小津安二郎的”な雰囲気が漂う現在の日常の合間合間に、父に反対されながらも画家を目指した小野が、やがて精神主義的・愛国的な画風に目覚めていく過去の回想が挟まれます。
ところが、小野が語る過去はどこか曖昧で、ハッキリしません。
小野が犯した「過去の過ち」についても、具体的な説明はありません。
読み手が知りたいこと――最も重要なことが、はぐらかされているような印象を持ちます。
しかしそれこそが作者の意図でもあるようです。
小野は、「過去の過ち」を隠したい。なかったことにしたいのです。
正当化せずにはいられない
敗戦によって世の中の価値観は180度変わりました。戦前は画家として認められ、もてはやされたのに、終戦を迎えたとたん冷遇されるようになった。
小野は、自分という人間が何者なのかわからなくなってしまったのでしょう。
過去の記憶を掘り起こし、旧知の人間を訪ね歩き、自分の正しさを確かめる小野。
そうやって、自分の人生を正当化せずにはいられなかったのです。
だけどこれは、誰にでも少なからず思い当たることではないかと思います。
一郎と小野の関係
長女・節子の息子で、8歳になる小野の孫「一郎」も興味を引く存在でした。
本当は怖いのに、強がって流行の怪獣映画を見に行きたいとせがむ一郎。
ローン・レンジャーやポパイの影響をもろに受け、夢中になる一郎。
「女ども」を男である自分より弱いものとして、下に見る一郎。
8歳なのにお酒を飲みたがり、男のプライドを満たそうとする一郎。
これらはすべて、小野の深層心理を反映しているように思えます。
他者の目に映る自分とのズレ
過去ばかりでなく、そのうち現在までもが怪しくなってきます。
序盤では小野の過去を問題視するような言動を取っていた長女が、終盤になると「覚えがない」「わけがわからない」などと言い出します。
「お父さまのお仕事は、わたしたちが問題にしているような、あの大きな事柄とはほとんど関係がなかったでしょ。お父さまは画家にすぎなかったんですから。大きな過ちを犯したなんて、もう考えてはだめよ」
これはいったいどういうことなのか。
小野が被害妄想にとらわれ、責められていると思い込んでいただけだったのか……。
他者の目に映っている自分は、自分が思うほど深刻ではない。
これもよくあることですよね。
実際には、小野が思うほど、周囲は小野の画業に感心を寄せていなかったのかもしれません。
タイトルの意味
この作品のタイトル「浮世の画家」は、物語の中盤でその意味が明らかになります。
小野が精神主義に目覚め、師匠の森山と訣別するときに放った台詞です。
「ここ何年ものあいだ、多くのことを学びました。歓楽の世界を見つめることも、そこにはかない美しさを発見することも、ずいぶん勉強になりました。でも、もうほかの方向に進む時期が来ているような気がします。(中略)画家が絶えずせせこましい退廃的な世界に閉じこもっている必要はないと思います。先生、ぼくの良心は、ぼくがいつまでも〈浮世の画家〉でいることを許さないのです」
小野の師匠・森山は、「浮世」にこそ画家の描くべき世界があると信じていました。
小野は「浮世」を遊里の世界、退廃的な世界と捉えていたようです。
しかし「浮世」という言葉には、「現世」や「変わりやすい世間」という意味もあるんですよね。
〈浮世の画家〉でいることを許さなかった若き日の小野。
けれども彼が後に成功を収めた場所も、〈浮世〉ではなかったでしょうか。
最後は小野が過去を克服し、〈浮き世〉を前向きに捉える場面で終わります。
温かいものが胸に残る、読後感のよい作品でした。
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