映画「スパイの妻」19の考察・伏線解説(ネタバレ有)誰がスパイだったのか?

19の考察・伏線解説(ネタバレ有)

①扉と窓

映画の冒頭、生糸検査所の扉が映ります。憲兵たちが扉を開けて中に入り、ドラモンドを連行します。ドラモンドはのちに重要な役割を担う人物で、彼もまた謎めいています。

黒沢清監督の作品には、「扉」と「窓」がよく出てきます。本作でも、シーンの中にはほとんどと言っていいほど「扉」や「窓」が映り込んでいます。

「扉」と「窓」は、外部(未知なるもの、不明瞭なもの)とのつながりや、その存在を匂わすものとして登場します。

優作と泰治がブラインドの下りた「窓」の前で再会するシーンでは、2人の関係が今までどおりではなくなることを予感させます。

聡子は金庫の「扉」を開けることで優作が抱える国家機密を知り、平穏な日常を捨てて“スパイの妻”として生きることになります。

②ドラモンド

優作の友人でイギリス商人のドラモンドは、スパイ容疑で逮捕されます。優作は見当違いだと笑い飛ばし、彼のために罰金200円を肩代わりしますが、のちにドラモンドは優作を裏切るような行為に出ます。

優作は彼を信頼して国家機密(記録フィルムの原物)を預けるのですが、ドラモンドはフィルムと引き換えに多額の金を要求してきたのです。

ドラモンドの正体については、明らかになっていません。優作は聡子に「彼こそ本物のスパイなのかも」と語りますが、優作が聡子を騙すために嘘をついた可能性もあります。

③「君はちっともバカじゃないさ」

優作はドラモンドのために罰金200円を肩代わりし、ドラモンドは釈放されます。

夫を薄情な人間だと誤解していた聡子は、「あなたはいつも私よりずーっと先を見ていらっしゃるから、自分がバカみたいで嫌です」と言い、優作は「君はちっともバカじゃないさ」と返します。

映画を見終わった後で見返すと、この会話がすべてを語っていることに気づきます。

中盤、夫の秘密を知った聡子は、大胆な計画を企んで彼を出し抜こうとします。しかし夫の優作は、聡子よりもずっと先を見ていたことが終盤で明らかになります。

④映写機とフィルム

優作は当時普及していたパテベビーで、自主映画を制作しています。

【パテベビー】
1922年に発売された9.5ミリフィルムによる、個人映画・家族内上映向けのフィルム、撮影機、映写機のシステム。フランスのパテ社が開発した。8mmフィルムが登場するまで、小型映画の主流をなしていた。

出典:活弁シネマ倶楽部 #115

映画の中で、優作は聡子に女スパイを演じさせています。序盤はこの自主映画に触れるシーンがたびたび登場し、満州へ行くときにも撮影機材を持ち込むほどの入れ込みようでしたが、忘年会での完成披露試写会の後はパタッと登場しなくなります。

そして終盤、聡子は憲兵に捕まり、自分がアメリカに持ち出そうとしていたフィルムが、優作の自主映画にすり替えられていたことを知ります。

聡子が信じ切っていた夫に「騙された」と気づかされる、とても衝撃的なシーンです。

劇中では、映画を撮っていた優作よりも、聡子がフィルムを手にする場面のほうが多く見られます。

序盤はただ夫を待っているだけだった聡子が、自ら「映写機を動かす」という能動的な行動をとることによって、物語が大きく展開していくことになります。

⑤ダイヤル式の金庫

優作が撮る自主映画の中で、聡子はスパイ役を演じていました。会社の倉庫に置かれた「ダイヤル式の金庫」を開けるシーンを何度も撮り直すうちに、聡子は番号を覚えてしまいます。

のちに、聡子は実際に夫を「スパイする」ことになり、この金庫を難なく開けることに成功します。

しかし、優作は聡子が番号を覚えていることを知っているはず。それなのになぜ、大事な国家機密のノートを、彼女の目の前で金庫にしまったのでしょうか。まるで「盗んでほしい」と言っているようなものです。

ここには優作の矛盾した気持ちが表れているように思えます。優作は妻を巻き込みたくないと思うと同時に、どこかで妻と共有したいという気持ちもあったのではないでしょうか。

⑥仮面

聡子はスパイ役を演じたとき、仮面をつけていました。このときはまだ優作が満州へ行く前で、聡子はスパイとは無縁の平穏な生活を送っています。

しかしのちに、聡子は仮面を被り、幼なじみの泰治や愛する夫を欺くしたたかな女性へと変貌します。

⑦聡子の服

ポスターにもなっている、黄色いワンピースを来た聡子。あえて幼い印象を与えるデザインを選び、中盤以降の聡子が見せる“顔”とのギャップを狙ったのだと思います。

当時の神戸では洋服を着る人が多かったようですが、聡子が言っていたように(ドラモンドから反物をもらったとき)、この年「国民服令」が出されたばかりでした。

「国民服」というのは、太平洋戦争中に使用された男子の標準服です。戦争映画などで、男性がカーキ色の服を着ているのをよく見ますよね。女性はモンペが奨励されました。

しかし優作は「そんなものに従ってたまるか」と言い放ち、洋装をやめません。聡子も夫に従い洋服で過ごしますが、一度だけ着物を着て外出しています。

実験ノートを持って、泰治のいる憲兵分隊本部へ乗り込んだときです。

このときの聡子は泰治を騙そうとしているので、和服を着ることで“命令に従順な国民”を装っていたのです。

⑧聡子の喋り方

劇中の人物、とりわけ蒼井優さん演じる聡子の喋り方には、はっきりとした特徴がありました。早口で、抑揚のない喋り方です(少し黒柳徹子さん風)。

昔の映画を見ると、みんなこういう喋り方をしていますよね。わたしたちが知っている「昔の人の喋り方」を再現することで、現代との繋がりを持たせたのだと、黒沢監督がインタビューで語っていました。

⑨憲兵隊小隊長の命令

優作は満州へ出立するとき、神戸港で憲兵隊を見かけます。憲兵隊の小隊長は部下を整列させると、「本日は不審者の発見と手荷物検査を行う。各自、しっかりやるように」と命じていました。

そのようすを見つめる優作と文雄。やがて2人は憲兵隊からスパイ容疑をかけられことになるのですが、当然この段階では知るよしもありません。

⑩泰治の忠告

優作が満州へ旅立ち、寂しさに耐えかねた聡子は、幼なじみの泰治を自宅に招きます。

泰治が自分に好意を持っていると知りながら、わざわざ夫が不在の家に招待するあたりに、聡子の根底にあるしたたかさが垣間見えます。

泰治は聡子が憲兵に目をつけられるのではないかと心配し、「あなた方の普通が、誰かにとっては批判や攻撃や主張と映る」と忠告します。

この泰治のセリフは、終盤、聡子自身が語るセリフに繋がっています。

精神科病院に入れられた聡子は、面会に現れた野崎医師に「私は一切狂ってはおりません」と打ち明けます。そして、「それはつまり、私が狂っているということなんです。きっとこの国では」と続けます。

誰かにとっての正義は、誰かにとって悪になる。それが国家レベルになると、戦争へと発展していきます。

しかしこのときの聡子は、まだ本当の意味で“戦争”を実感していません。

⑪後ろ姿

登場人物たちの「後ろ姿」を映すシーンも数多く見られました。

優作が満州へ向かう日、神戸港で憲兵隊の行進を見つめるシーン。泰治に呼び出された聡子が、バスに乗って憲兵分隊本部へ向かうシーン。憲兵隊に捕まった文雄が、拷問を受けるシーン。

いずれも表情が見えない分、想像を掻き立てられるシーンになっていました。

⑫嫉妬心

泰治から草壁弘子の存在を聞かされ、夫の浮気を疑う聡子。優作が抱えていた秘密は不倫ではないのですが、聡子を行動へと駆り立てたのは“嫉妬心”でした。

黒沢監督は作品の中で“夫婦”を描くことが多いのですが、監督いわく「“嫉妬”や“不倫”には、まったく興味がわかない」そうです。

本作においても、脚本では聡子の心を大きく占めているのは“嫉妬”だったらしいのですが、監督が微調整したと語っています。

「ところがいま思うと、僕は知らず知らずのうちに、彼女がその懸念を飛び越えて、夫の謎の解明に向かって積極的に行動するよう微調整していました。自分から倉庫に忍びこみ、自分から電車に乗って憲兵分隊本部に行き、みずから映写機を出してきて映写する。嫉妬心だけで聡子を動かしていくことが、僕にはできなかったんですね」

出典:GQ MEN OF THE YEAR 2020

⑬「あなたは何も見なかった」

聡子は有馬の旅館に籠もる文雄を訪ね、真相を聞き出そうとします。しかし文雄は「あなたは何も見なかった。あなたには分かりようがない」と言って拒絶します。

優作もまた、「僕は見た以上、何かをしなくてはならない」と聡子に言います。

戦争の実態を目の当たりにした優作と文雄に対し、「見ていない」聡子。その隔たりを埋めるため、聡子は金庫に隠してあった記録フィルムを見て、優作と同じ志を持とうとします。

しかし実際には、このときの彼女は優作と同じ場所には立てていません。本当に彼女が「見る」ことができたのは、終戦間際の神戸大空襲においてでした。

⑭七三一部隊

優作が満州で見た“国家機密”とは、関東軍による細菌兵器の生体実験でした。

わたしが「七三一部隊」について知ったのは、松谷みよ子さんの児童小説『屋根裏部屋の秘密』を読んだときです。とても衝撃を受けたことを覚えています。

専門的な知識はないので、ここでは大辞林の記述を引用します。

【七三一部隊】
旧日本陸軍が細菌戦の研究・遂行のために1933年(昭和8年)に創設、ハルビンに置いた特殊部隊の略称。秘匿名、満州第七三一部隊、正式名、関東軍防疫給水部本部。中国で細菌戦を行うとともに、生体実験や生体解剖を行い、多くの捕虜がその犠牲となった。部隊長は石井四郎(1892~1959)。

出典:大辞林 3.0

⑮神戸大空襲

終盤、聡子は優作に裏切られ、ひとり日本に置き去りにされます。夫の真意に気づいた彼女は狂ったふりをして精神科病院に入り、そこで神戸大空襲を目の当たりにします。

映画のクライマックスとも言える、衝撃的なシーンです。

聡子は実験を記録したフィルムを見て、優作とともに正義を貫く決意をしました。しかし彼女が見たのはあくまでコピーフィルム(の一部)。実際に目の前で死体の山を目撃した優作とは、大きな隔たりがありました。

聡子は爆撃で燃えさかる神戸の町を見て、叫びながら死んでいく人々を見て、初めて戦争の実態を知ります。

そしてその地獄のような光景は、愛する人と自分が正義を貫いた結果でもあるのです。

⑯「お見事です」

映画の序盤、聡子は冗談まじりに「あなたはいつも私よりずーっと先を見ていらっしゃるから、自分がバカみたいで嫌です」と言っていました。

常に自分よりも先を行く優作に、なんとか追いつこうとした聡子。優作の言うとおり、彼女はバカではありません。泰治を利用して文雄を逮捕させ、優作にとって唯一の存在になろうとしていました。

しかし最後は見事に出し抜かれ、聡子はひとり日本に置き去りにされてしまいました。聡子の「お見事です」というセリフには、置き去りにされた彼女の心情がよく表れています。

実際には、優作がアメリカに渡ったかどうかはわかりません。彼の密告によって関東軍の国家機密が暴かれ、アメリカが参戦し、開戦に至った…のかどうかも不明。

けれども聡子にとっては、間違いなく「夫が成し遂げたこと」なのでしょう。そうでなければ、自分が置き去りにされた意味がありません。

⑰海岸のシーン

ラストシーン。空襲を逃れた聡子は、海岸に辿り着きます。砂浜で泣き崩れる聡子の姿には、感情を激しく揺さぶられました。

夫の裏切り、孤独、敗戦。
彼女の慟哭に何を感じ取るかは、人によって異なると思います。

黒沢監督によると、この海岸でのシーンはもともと脚本にはなく、「たぶん編集でカットだろうな」と思いながら撮ったシーンだったそうです。興味深いエピソードだったので、少し長いですが引用します。

「海岸のシーンは余計かなと思いつつ、わかりやすい、ひとつの戦争を受け止めた感情として海岸のシーンを撮ってたんです。でも撮りつつ、どっかでこの人たちを救いたいというか、この人たちに未来はあるはずなんだよなと思ってたんですね。それを撮った後で海のシーンをくっつけてみて、“終戦”というのを入れてみたんです。終戦を入れたら成立するじゃん、とふと思ってですね。終戦のあともあるんだよなと、編集してるときに。それで字幕を付け足した。(中略)ふと気づくと僕のいつものパターンで、世界の外側に希望を見つけて突っ走って終わるという、そうするつもりじゃなかったんだけど、そうなってしまったんですね」

出典:活弁シネマ倶楽部 #115

最後の最後に呈示された、未来への希望。聡子や優作がいる場所よりもずっと先の未来に生きるわたしたちは、その希望を知っています。

だからきっと優作は生きていて、聡子はアメリカに渡って優作と再会したのだろうと、期待を込めて想像します。

⑱誰がスパイだったのか?

この作品の中で最も謎めいていた人物は、福原優作です。

雄弁でありながら、何を考えているのかさっぱりわからない。どこまでが本当で、どこからが嘘なのかもわからない。最後は生死すらもわからないという、“不明瞭な怖さ”を持つ不気味な存在でした。

彼は聡子を騙してひとりで海外へ渡ってしまいます。聡子にしてみればひどい裏切り行為ですが、優作なりの愛情の形だったのかもしれません(個人的には理解しがたいですが)。

問題は、優作がどの時点から聡子を騙していたのか? ということ。

聡子に「二人でアメリカへ渡りましょう」と言われたときには、おそらく彼の心は決まっていたと思います。

でも、実はもっと前から、聡子を騙していたとしたら?
優作が本物のスパイだったとしたら?

満州へ渡ったのは、関東軍の研究施設に潜入し、証拠を記録するためだったのかもしれません。わざわざ撮影機材を持ち込んでいますし、同行した文雄も協力者だった可能性があります。

優作が連合国側のスパイだと考えると、文雄が彼をかばって拷問に耐えたことも、英国人のドラモンドにフィルムの原物を預けたことも、聡子を日本に置き去りにしたことも、すべて腑に落ちるんですよね(何よりタイトルが「スパイの妻」です)。

もしかしたら、聡子も優作がスパイだと気づいていたのでは?
だからこその「お見事」だったのかも。

優作が撮った自主映画の中では、聡子が演じたスパイの女は、彼女を追う男と禁断の恋に落ち、最後は男に撃たれて死んでしまいます。

男女が逆ではありますが、夫婦の行く末を暗示する内容にもなっていました。優作がこの映画を撮ったことにも、深い意味があるような気がしてなりません。

⑲タイトル『スパイの妻』の意味

タイトル『スパイの妻』は、ダブルミーニング(二重タイトル)になっています。

ひとつは文字通り「スパイ(=優作)の妻」という意味。

もうひとつは、聡子自身がスパイ行為を働いていることから、「スパイ(=聡子)な妻」という意味。

聡子は劇中で何度か「スパイの妻」という言葉を発していますが、最初は「スパイの妻と罵られるのは耐えられない」と否定し、途中からは「あなたがスパイなら、私はスパイの妻になります」と肯定に転じています。

聡子が本心から望んだことは、(精神的にも物理的にも)優作と同じ場所にいたい、ただそれだけだったように思います。

1 2