アガサ・クリスティーの長編小説「チムニーズ館の秘密」を読みました。
謎解きと冒険が組み合わさったロマンあふれるミステリーで、とても楽しめました。舞台はロンドン郊外の大邸宅「チムニーズ館」。集まったのは、政治家や資産家、王室の武官、元外交官の未亡人など、さまざまな思惑を抱える人びと。
探偵役は、主人公の青年アンソニー・ケイドと、ロンドン警視庁のバトル警視(バトル警視はこの作品が初登場)。
殺人事件や宝石の行方、さらには王位継承の陰謀まで絡んでくるのですが、深刻になりすぎず、「お? これはもしかして?」という展開や、「えっ、この人だったの?」という展開が次々に起きて、終始ワクワクさせてくれます。
クリスティーといえば本格推理の女王ですが、この作品では「謎解き」と「冒険」が両輪となって物語を引っ張ります。最後には驚きの真実が用意されていて、読後感は爽快です。
登場人物(ネタバレなし)
主要人物
アンソニー・ケイド
キャッスル旅行会社の旅行案内役。冒険好きでユーモアのある青年。アフリカ・ジンバブエの都市ブラワーヨで友人のジェイムズと再会し、彼から「ある回顧録を出版社へ届ける」「秘密の手紙を差出人に返却する」という奇妙な依頼を受ける。それをきっかけに14年ぶりにロンドンへ足を踏み入れ、数々の事件に巻き込まれることに。
ヴァージニア・レヴェル
勇気と知性を兼ね備えた魅力的な女性。亡き夫がヘルツォスロヴァキア大使館に勤務していたため、かつて夫婦で同国に駐在していた。自宅で起きた不可解な事件に巻き込まれ、偶然出会ったアンソニーに助けを求める。
ジョージ・ロマックス
ヴァージニアのいとこで、イギリス外務省の高官。周囲からは「コダーズ(鱈)」と呼ばれている。チムニーズ館での会合を企画した張本人であり、ヘルツォスロヴァキアの王位継承や国際的な利権問題において、イギリス政府の立場を守るべく奔走する。
ビル・エヴァズレー
外務省に勤める外交官で、ロマックスの秘書。大柄で腕力にすぐれ、不器用だが快活な性格の好青年。ヴァージニアに夢中。
バトル警視
ロンドン警視庁の有能な警察官。がっしりした体格に、木彫りの面のような無表情な顔の持ち主。外務省のロマックスから依頼を受け、チムニーズ館で起きた殺人事件の捜査に乗り出す。冷静沈着で観察力に優れ、複雑な事件を論理的に整理していく。
ルモワーヌ
パリ警視庁の刑事。整えられた黒いあごひげが特徴。怪盗キング・ヴィクターを追ってチムニーズ館にやってくる。
キング・ヴィクター
パリを拠点とする名高い宝石泥棒。変装の達人であり、五カ国語を自在に操る知性派。一度は逮捕されたものの、数か月前に釈放され、再び暗躍を始める。チムニーズ館に眠る至宝コイヌール(英国王室所蔵の世界最大のダイヤモンド)を狙っている。
ケイタラム家
ケイタラム卿
チムニーズ館の主人であり、第9代ケイタラム侯爵。上院議員でもある。本名はアラステア・エドワード・ブレント。ものぐさで政治には関心を示さず、穏やかな生活を望んでいるが、ロマックスが次々と政治的な策略を持ち込むので心休まる暇がない。
アイリーン・ブレント
ケイタラム卿の長女で、愛称は「バンドル」。ボーイッシュな顔立ちで、快活な性格。頭の回転が速く行動力もあり、愛車を猛スピードで走らせるのが趣味。
トレドウェル
ケイタラム家に仕える執事。白髪で威厳のある風貌をしており、館の空気を引き締める存在。
ジュヌヴィエーヴ・ブラン
ケイタラム家に雇われたフランス人の家庭教師。白髪まじりの小柄な中年女性。アイリーンの妹であるダルシーとデイジーの教育としつけを任されている。以前はブルテイユ伯爵夫人に仕えていた。
ヘルツォスロヴァキアの関係者
スティルプティッチ伯爵
ヘルツォスロヴァキアの元首相。独裁者でありながら愛国者でもあり、天才的な策略家として知られる。晩年はパリで暮らし、そこでジェイムズと出会い命を救われたことから、彼に回顧録の原稿を託す。
ニコラス4世
ヘルツォスロヴァキア最後の王。パリの女優と恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚する。しかし彼女の出自を理由に国民が猛反発し、革命が勃発。7年前に王妃とともに暗殺され、その後ヘルツォスロヴァキアは共和制へと移行した。
ヴァラガ女王
ニコラス4世の妻で、ヘルツォスロヴァキア最後の王妃。パリで女優をしていたが、ニコラス4世に見初められて結婚する。しかし身分の低い外国人であることが明るみに出ると、それが革命の火種となり、争乱の中で国王とともに命を落とした。
ミカエル王子
ヘルツォスロヴァキアの王子であり、王位の第一継承者。イギリス政府の支援を受けて即位を目指している。資金提供を受ける見返りとして、イギリス企業のハーマンスタイン社に石油利権を認める準備を進めており、その取り決めのためにチムニーズ館を訪れる。
ニコラス王子
ミカエル王子のいとこで、王位の第二継承者。風変わりな思想の持ち主で、かつてオクスフォードを退学処分となった過去を持つ。コンゴで命を落としたと噂されていたが、数か月前に突如アメリカへ姿を現した。
ロロプレッティジル男爵
ロンドンに駐在するヘルツォスロヴァキア王制擁護派の代表者。王政復古を掲げ、イギリス政府の支援を得てミカエル王子の即位を実現しようと計画している。その過程でスティルプティッチ伯爵の回顧録が障害になると考え、原稿の入手を狙う。
ボリス・アンチューコフ
ミカエル王子に仕える付き人。誠実で忠実な人物。
アンドラーシ大尉
ミカエル王子の侍従武官。
ダッチ・ペドロ
ジェイムズがウガンダで出会ったヘルツォスロヴァキア人。熱病で亡くなる直前に、“強請のネタ”として所持していた恋文の束をジェイムズに渡した。
チムニーズ館の賓客
ハーマン・アイザックスタイン
全英シンジケートの代表を務める財界の大物で、名高い資本家。ヘルツォスロヴァキアの石油利権をめぐる極秘会談に参加するため、チムニーズ館に滞在している。
ハイラム・P・フィッシュ
アメリカ出身の稀覯本愛好家。パーティーの客のひとりとして、億万長者ルーシャス・C・ゴットの紹介状を携え、チムニーズ館を訪れる。
そのほか
ジェイムズ(ジミー)・マグラス
アンソニーの友人で、アフリカ在住のカナダ人。アフリカの奥地で金鉱を掘り当てることを夢見ている。スティルプティッチ伯爵から託された回顧録の原稿と、偶然手に入れた秘密の手紙をアンソニーに託し、ロンドンへ届けてほしいと頼む。
ジュゼッペ・マネリ
ロンドンのホテルで働くイタリア人のウエイター。深夜にアンソニーの部屋へ忍び込み、回顧録と勘違いして恋文の束を盗み出す。後日、その手紙の差出人であるヴァージニアを脅迫する。
あらすじと解説(ネタバレ無)
『チムニーズ館の秘密』は1925年に発表されたノンシリーズの長編小説です。
クリスティーが書いた5番目の長編小説で、初期の作品にあたります(この次に書かれたのが「アクロイド殺し」です)。ロンドン警視庁のバトル警視が初登場する作品でもありますね。
主人公は旅行会社勤務の青年アンソニー・ケイド。彼が友人から奇妙な依頼を受けたことをきっかけに、ロンドン郊外の大邸宅「チムニーズ館」で起こる殺人事件や、国際的な陰謀に巻き込まれていくという内容です。
物語の背景には、第一次世界大戦後のヨーロッパ情勢があります。バルカン半島の架空の国として登場する「ヘルツォスロヴァキア」では王政復古の動きがあり、さらに石油利権をめぐる国際的な思惑が絡んでいました。
当時の読者にとっては、政治のゴタゴタや国際問題が身近な話題だったため、クリスティはそれを物語に取り入れて「時代の空気」を感じさせていたのです。
政治、恋愛、宝探し、王位継承、殺人事件が全部詰め込まれた小説で、そのぶん登場人物も多く、少しややこしいところもあります。そのあたりを整理しつつ、解説していきたいと思います。
友人から頼まれた奇妙な仕事
ジンバブエで旅行の案内役をしていた青年アンソニー・ケイドは、久しぶりに再会した友人ジェイムズ・マグラスから「ちょっと代わりに仕事をしてくれないか」と頼まれます。
その仕事というのが、
- スティルプティッチ伯爵が残した回顧録の原稿を、10月13日までにロンドンの出版社へ届けること(しかも高額報酬つき!)
- ついでに、偶然手に入れてしまった秘密の恋文を、差出人の女性ヴァージニア・レヴェルに返してあげること
というものでした。
この伯爵は、ヘルツォスロヴァキアという小さな共和国の元首相で、すでに亡くなっています。ジェイムズは生前の伯爵と偶然知り合い、命を救ったことがあり、その縁で原稿を託されたらしいのです。
本当ならジェイムズ自身が行くべきなのですが、どうしても外せない「金鉱探し」の予定があり、アンソニーに白羽の矢が立ったわけです。
冒険好きのアンソニーは「面白そうだ!」とふたつ返事で引き受け、仕事を辞めて帰国します。ところが、14年ぶりにロンドンに降り立った彼の前に、ヘルツォスロヴァキアの王制擁護派と、共和制支持派(レッド・ハンド党)の両方が現れ、「回顧録を渡せ」と迫ってきます。
また、ホテルの従業員ジュゼッペがアンソニーの部屋に忍び込み、原稿と間違えて恋文を盗んでしまうという事件も発生。
その後、出版社の使いの者が原稿を受け取りにやってきます。アンソニーは“ホームズ”と名乗る代理人に原稿を渡し、見事1000ポンドの小切手を手にしました。
チムニーズ館での策略
その頃、チムニーズ館では、主のケイタラム卿と外務省の高官ジョージ・ロマックスが、週末のパーティ準備に大忙しでした。
ロマックスの狙いは、ヘルツォスロヴァキアのミカエル王子を館に招き、石油利権をめぐる会談を開くこと。イギリス政府は「王政復帰の資金を出す代わりに、石油利権は国内企業によろしく」という取引をまとめようとしていたのです。
ところが、ここで厄介な問題が浮上します。スティルプティッチ伯爵の回顧録です。もしその中に王室のスキャンダルが書かれていたら……せっかく盛り上がっている王政復古の機運が、一気に冷え込んでしまうかもしれません。
そこでロマックスは考えました。「そうだ、原稿を託されたジェイムズ・マグラスをチムニーズ館に呼び寄せて、うまく説得すればいい」。しかも、いとこのヴァージニア・レヴェルに彼の相手をさせれば、案外うまくいくかもしれない――そんな算段を立てるのでした。
ジュゼッペ殺害事件
アンソニーから恋文の束を盗んだジュゼッペは、それを持ってヴァージニアの家へ押しかけ、彼女を脅して取引を持ちかけます。ところがヴァージニアはまったく動じません。
なぜなら、その手紙を書いたのは彼女ではなかったからです。差出人の名前はなぜかヴァージニアになっていましたが、本人にはまったく覚えがない手紙でした。
ヴァージニアは、本当の差出人を守ろうと考え、あえて「自分が書いたふり」をしてジュゼッペをだまし、翌日また来るよう約束させます。ところが翌日、外出から戻った彼女が目にしたのは、書斎で死んでいるジュゼッペの姿でした。
困り果てたヴァージニアは、たまたま訪ねてきた初対面の男アンソニー・ケイドに助けを求めます。遺体のポケットには「チムニーズ 木曜日11時45分」と書かれた紙切れ、床にはヴァージニアの名前が刻まれた銃が落ちていました。
「これはヴァージニアに罪を着せて、チムニーズ館へ行くのを邪魔しようとしているのでは?」と考えたアンソニーは、警察に知らせず、遺体を遠くへ運んで事件を隠すことを決めます。
そして帰り道にチムニーズ館へ向かったアンソニー。すると、時計が11時45分を打った瞬間、屋敷の中から銃声が響きました。窓に近づいてみても鍵がかかっていて開かず、「空耳だったのか」と思い直して帰ろうとしたその時――2階の窓がぱっと明るくなり、しばらくしてまた闇に戻ったのです。
ミカエル王子殺害事件
翌朝、チムニーズ館で遺体が見つかり、館中が大騒ぎになります。銃で撃たれていたのは、なんとミカエル王子でした。
ロマックスはすぐさまロンドン警視庁に連絡し、知り合いのバトル警視を呼び寄せます。到着したバトルは現場を調べ、窓の外に残された足跡を発見。その足跡が近くの宿に泊まっていたアンソニーのブーツと一致したことから、アンソニーに疑いの目が向けられます。
しかしアンソニーは自らチムニーズ館に姿を現し、昨夜の銃声について説明します。さらに、友人ジェイムズ・マグラスから頼まれた仕事のこと、そして回顧録はすでに出版社に渡したことを明かしました。
遺体を見たアンソニーは、そこに横たわっていた男が原稿を受け取りに来た“ホームズ”だと気づきます。つまり、ミカエル王子が代理人を装ってアンソニーを騙していたのです。
一方、ヴァージニアはすでにチムニーズ館に到着しており、アンソニーを「古い友人」として紹介します。そのおかげでアンソニーはケイタラム卿から館に滞在する許可を得ることができました。
犯人候補は3人
バトル警視とアンソニーは、ミカエル王子殺害の犯人として、つぎの3人に注目します。
- ニコラス王子
次の王位継承者であるニコラス王子は、ミカエルのいとこ。ちょっと風変わりな人物で、コンゴで死んだという噂まで流れていました。ところが数か月前、突然アメリカに姿を現し、資本グループに取引を持ちかけていたことがわかりました。 - 怪盗キング・ヴィクター
フランスの怪盗キング・ヴィクターは、かつて英国王室の至宝“コイヌール”を盗み、チムニーズ館に隠したと噂される伝説の男。刑期を終えて出所したばかりで、宝石を取り戻しに館に現れた可能性があります。 - 家庭教師ブラン
アンソニーが木曜の夜に目撃した「銃声直後に明かりがついた2階の窓」は、フランス人家庭教師ブランの部屋でした。怪しいと思われましたが、過去に彼女を雇っていたブルテイユ伯爵夫人が身元を証明。容疑はひとまず晴れます。
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