ネタバレ「SHOGUN 将軍」全話あらすじ解説と感想・登場人物(キャスト)・予告動画

「SHOGUN 将軍」あらすじキャスト

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虎永の策略を見抜いていた人たち

虎永の忠臣であり親友でもあった戸田広松が、虎永の降伏宣言に異を唱え、眼前で切腹するという衝撃の内容が展開された第8話。

ところがそれは2人だけが知る〝はかりごと〟だったことが、最後に明かされます。

虎永の企みを見抜いた広松が切腹を申し出たとき、虎永は一瞬逡巡しているんですよね(ほかの家臣に切腹させようとする)。けれど広松の覚悟を知り、親友の死を受け入れる決断をします。

2人が目だけで本音のやりとりをしているのがなんともすごい迫力で、その緊張感たるや。交わす言葉は(周囲を欺くための)うわべに過ぎず、本心は心の奥の奥にある。2人にしかわからない、2人だけの視線による会話。

このシーン、当初は広松を含む5人の家臣たちが一緒に切腹するという脚本だったらしいのですが、広松を演じた西岡德馬さんのアイデアで、広松ひとりが切腹する展開に変えられたそうです。

虎永と広松は「互いの目を見合うだけで、お互いを全て理解できるような関係性」だと製作陣から伝えられていたそうで、長年共演してきた真田さんと西岡さんの信頼関係があってこそ叶えられた神業シーンでしょう。

広松が壮絶な最期を遂げたあと、虎永と鞠子が和歌を詠み合う(連歌というそうです)場面があります。

虎永「木の葉しぐれの 音聞こゆなり」
鞠子「春になお もろきは涙 袖のつゆ」
虎永「松ばかりには 冬枯れもなし」
鞠子「花乱れ 言の葉散りて たき火かな」

古文に詳しくないので正しい解釈はできませんが、そこはかとない悲しみが伝わってきます。

第8話では鞠子と文太郎も和歌を詠んでいて、こちらも切ない内容です。

鞠子「梅が香や 花のあたりを 立ち別れ」
文太郎「遠くかすめる 風のゆく先」

文太郎は最後まで鞠子の〝真実〟を見抜くことができませんでしたね。自業自得とはいえ、哀れでした。

本編ではカットされていますが、広松が息子・文太郎について「あいつも不憫なやつよ」と孫娘の藤に語るシーンがあったそうです(西岡さん談)。広松は文太郎と鞠子の関係も、鞠子と按針の関係もわかっていたんですね。

虎永の企みを見抜いていた人物は、広松のほかにもう一人います。茶屋の主・お吟です。彼女は第7話で、虎永にこう話していました。

「ただ腑に落ちぬのでござります、虎永様。迫りくる軍勢あらば間者が知らせぬわけがなかろうに。手勢を弱らせたまま放っておいて弟君を迎えるとは。何ゆえ、かようにうかつな過ちを?」

つまり、虎永があえてこの状況を作ったのではないかと疑ったわけです。虎永が気色ばんだところを見ると、お吟の指摘は的を射ていたのでしょう。

第8話で、虎永はお吟に土地を与えます。彼女の夢は、江戸に遊女が暮らせる町を造ること。雨の中、何もない平らな土地を前にして、長年の夢を思い描くお吟。

虎永はカトリック教会にも土地を分け与えるのですが、皮肉なことにその場所は、お吟の土地と隣合わせでした。虎永はお吟の洞察力を見込んで隣地の教会を見張らせ、彼らの動きを把握しようとしていたのかもしれません。

ちなみに史実では、1614年に2代将軍・徳川秀忠が全国に「キリシタン禁令」と「宣教師の国外追放令」を発布しています。

鞠子と按針が辿り着いた場所

まずタイトルの「紅天」に注目。このタイトル自体が伏線になっていて、最終話で見事に回収されます(のちほど触れます)。

第9話では、虎永の命を受けた鞠子が大阪に向かい、主君のため、亡き父のため、そして自分自身のために命をかけて戦います。アンナ・サワイさんの全身全霊を打ち込んだ演技に圧倒されました。

鞠子のまっすぐな生き方

鞠子に与えられた任務は、人質になっている桐の方と静の方を江戸に連れ帰ること。もちろん石堂は認めませんが、鞠子は正面から強行突破しようとします。

しかし、いくら鞠子が強いと言っても、大勢の敵に対して女性が薙刀1本で立ち向かうのは、どう見ても無謀です。このシーンについて、プロデューサーのジャスティン・マークス氏は次のように語っています。

「彼女の持っている武器は、相手を殺すためのものではない。あの武器は、彼女の意図を示すためにあるのです」

また、同じくプロデューサーを務めるレイチェル・コンドウ氏は、

「彼女には侍たちの壁を切り抜けることができません。しかし、“弱さ”という概念と、彼女の持つ威厳のバランスをどう取るかです」

と話しています。鞠子は勝つために戦っているのでのはなく、意思を示すために戦っているのだと。

この正々堂々とした抵抗がすがすがしくもあり、悲しくもあるんですよね。第3話での虎永の大阪脱出(こっそり静の方と入れ替わる)とは対照的で、鞠子のまっすぐな生き方にも通じ、胸が詰まりました。

虎永に見透かされている石堂

そんな鞠子の命がけの行動が石堂を行き詰まらせ、落ち葉の方の心を乱すことになります。

もし石堂が鞠子の要求を飲めば、ほかの人質に対しても城を出る許可を出さねばならなくなる。その結果、大老衆が石堂の支配から逃れ、虎永と手を組む可能性が出てくる。

もし鞠子と大老衆を殺せば、石堂の側の正当性が崩れてしまい、虎永に与する大名たちが増えることになる。虎永に戦の名目を与えてしまうことにもなる。

そのあたりのことを、虎永はすべて見抜いたうえで、鞠子を送り込んだのだと思います。そして、落ち葉の方を説得すること。それが鞠子の最終目的であり、使命でした。

花は散るがゆえに花

落ち葉の方と鞠子は幼なじみでありながら、父親が敵同士という因縁の関係でもあります。ただ、落ち葉の方は虎永を憎んではいますが、鞠子を憎んでいるようには見えませんでした。

鞠子が「雪ながら 夕べにかすむ 枯れ枝かな」という句を詠んだとき、落ち葉の方は目を伏せ、考え込むような表情をしていました。おそらく、この句が鞠子の辛い過去を詠んだものだと気づいたのでしょう。

死んで自分の息子を守れるのか? と問う落ち葉の方に、鞠子はこう答えます。

「死を受け入れること、すなわち諦めることではございません。花は散るがゆえに花なのでござりまする」

これは、鞠子のモデルになっている細川ガラシャの辞世の句「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ(花は散るときを知っているからこそ花として美しい。人間もそうでなければならない。今こそ散るべきときである)」を意識したセリフになっていると思われます。

鞠子と按針が辿り着いた〝真実〟

自害を宣言した鞠子に、按針は「俺のために生きてほしい」と訴えます。しかし、鞠子の「死も生も同じこと。どちらにも価値と目的がある」という言葉の意味を理解し、自分の望みよりも彼女の望み(真実)を尊重しようと決めます。

按針が鞠子の介錯を買って出たのは、そういう思いもあったから。鞠子を愛しているからこそ、彼女にとって最も大切なものを優先したんですね。

それは鞠子が文太郎との関係(支配と服従)では得ることができなかった、鞠子にとっての本物の愛情だったのだと思います。

鞠子は無意味な生も死も望んでいませんでした。彼女が望んだのは自分の人生を生かす死に方。それは父の名誉を取り戻すことであり、主君に忠義を尽くすことであり、他者のために命を投げ出すことだったのかもしれません。

第8話で切腹した広松も、今回の鞠子も、きっと心に一点の曇りもなく、誇りを持って死んでいったと思います。悲しいけれど、そう思うと少し救われます。

紅天の真相と◯◯が描かれなかった理由

按針の未来は何を指す?

最終話は、老いた按針がベッドに横たわっているシーンから始まります。部屋には孫らしき子どもたちもいます。

しかし、これは実際の未来ではなく、按針が見ている〝夢(ビジョン)〟です。このシーンについては、真田広之さんがこのように語っています。

「侍の兜を見ながら、(老按針は)こう思っていたはずです。“これが死ぬのにふさわしい方法なのか。長生きは幸せなのか?”と。それから彼は、鞠子が名誉のために、使命のために、意味のある死を遂げたのを目の当たりにしたのです。そういうことが、彼に侍の精神とは何なのかを教えてくれたんです。幸せとは何か?彼にとって良い死とは何か?タイミングとは?彼にとって名誉ある死とは何か?その瞬間、武士道精神が頭に浮かんだのだと思います。」

つまり「こんなふうに故郷で老いて死ぬことが本当に幸せなのか?」と按針はビジョンを通して自分に問い、そうじゃないという答えを出したのでしょう。

重要なのは、夢の中で老按針が握りしめていた十字架です。これは鞠子が身につけていたもの。しかし現実では、按針は終盤、鞠子の十字架を海に沈めています。

夢の中の按針は死ぬまで鞠子にとらわれたままですが、現実の按針は武士道精神に目覚め、彼女の死を乗り越えて先に進む決意をしたのだと思います。

鞠子の存在の重みを知る

網代に戻ってきた按針は、藤と一緒に家の縁側に座り、いつも自分の隣にいた鞠子がいないことを悲しみます。按針の「通詞いない」という片言のセリフが切なくて、泣けてきます。

ここで描かれているのは、第6話で遊女のお菊が話していた「無」の説明そのままです。

「お前が見ているところに今、提(ひさげ)は無い。無いからこそ、確かにあったのだと思うのでしょう」

このときお菊が何を言っているのか、わたしを含めほとんどの視聴者はよくわからなかったはず。でも鞠子がいなくなり、その言葉の意味を実感したのではないでしょうか。

按針が日本語を話せるようになり、ポルトガルとの覇権争いよりも村人の命を救うことのほうが大切だと思うようになり、自分の信念を貫くために見様見真似で切腹しようとする…それらのシーンにも、鞠子の存在を感じさせます。

鞠子は死んでいなくなったのに、ずっと彼女の存在を感じる。そんな最終話でした。

紅天とは何だったのか?

もうひとり、鞠子に心を動かされた人がいます。落ち葉の方です。

彼女は石堂に失望し、ひそかに虎永に文を送って「世継ぎの軍を戦には出さない」と約束しました。これをもって虎永の策略は成功しました。

終盤、虎永は藪重に、

「紅天はすでに終わっておる。大老衆が結束しておるかぎり、大坂に軍を送るなどもってのほか。それはすなわち死を意味する。そこでわしは、女子をひとり送り込み、軍勢にもできぬことをさせたのじゃ」

と語っています。

ここで初めて、第9話のタイトルが「紅天」だったことの意味が明かされます。その役目を全うしたのは鞠子でした。いったい、どこからどこまでが虎永の「計画」だったのか。長門の暴走や藪重の裏切りも折込済みだったのか。考えれば考えるほど恐ろしい。

関ヶ原の戦いが描かれなかった理由

最終話では関ヶ原の戦いは描かれず、虎永が見る未来のビジョンに一瞬出てきただけでした。これについては、

「予算の都合もあったのですが、(原作者の)クラベルがそういった物語をやっていなかったためです」

と、プロデューサーのジャスティン・マークス氏が原作小説に準拠したことを明かしています。もし関ヶ原の戦いを映像化していたら「おそらく今もまだ撮影中だったでしょう」とも。

この結末については賛否両論あるようですが、わたしはむしろ余韻を持たせるラストでとても良かったと思います。海外の視聴者が、この先が気になって日本史を調べてくれたりするのも嬉しいですし。

本作は1シーズン限りのリミテッド・シリーズとして製作されたため、当初は続編の予定はないという話でしたが、最新の報道ではシーズン2製作に向けて動き始めているという情報もあり(正式発表はありませんが)、めちゃくちゃ楽しみです。

と同時に、一抹の不安もあります。

原作が終わっているのでこの先のストーリーはオリジナルになるわけで、史実があるとはいえ、余計な付け足しみたいになったら嫌だなぁ…という。鞠子も藪重も死んじゃったし。

でも期待して待ちたいと思います。

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