あらすじと解説(ネタバレ有)
「H」の頭文字のハンカチ
ラチェットが殺された部屋には、「H」の頭文字が刺繍された高価なハンカチが落ちていました。「H」とは誰なのか?
ポアロは贅沢なハンカチを持つにふさわしい人物として、ドラゴミロフ公爵夫人と、アンドレニ伯爵夫人をあげます。
しかし2人とも、名前の頭文字が「H」ではありません。
ポアロはアンドレニ伯爵夫人のパスポートについている「油のしみ」に注目します。彼女の本当のクリスチャン・ネームは“Helena(ヘレナ)”でしたが、パスポートを“Elena(エレナ)”と書き換え、油を落として隠していたのです。
アンドレニ伯爵夫人は、亡くなったソニア・アームストロングの妹、ヘレナ・ゴールデンバーグだったのです。
しかし、ヘレナはパスポートを書き換えたことは認めますが、ハンカチの持ち主であることは認めません。ラチェット殺害についても断固として否定します。
するとドラゴミロフ公爵夫人が現れ、私のハンカチだと言います。彼女のクリスチャン・ネームは“ナタリア”でしたが、ロシア語では「N」は「H」なのだと。
彼女はアンドレニ伯爵夫人がヘレナ・ゴールデンバーグだと知りながら、ヘレナを守るために黙っていたのでした。
乗客たちの正体
やがてポアロは、この車両に乗り合わせた乗客全員がアームストロング家にゆかりのある人物であることを確信します。
- メアリ・デブナムは、アームストロング家の家庭教師
- アーバスノット大佐は、アームストロング大佐に命を救われた戦友
- アントニオ・フォスカレリは、アームストロング家のお抱え運転手
- ヒルデガード・シュミットは、アームストロング家の料理人
- グレタ・オールソンは、誘拐されたデイジー・アームストロングの育児係
- エドワード・マスターマンは、戦時中はアームストロング大佐の従卒で、戦後は大佐の召使
- ピエール・ミシェルは、容疑をかけられて自殺した子守娘の父親
- サイラス・ハードマンは、子守娘の恋人
- ヘクター・マックイーンは、ソニアを尊敬していた
- ミセズ・ハバードは、ソニアの母親で、名女優リンダ・アーデン
最も容疑がかかりやすい(ソニアの実妹である)アンドレニ伯爵夫人は犯行に加わらず、代わりに夫であるアンドレニ伯爵が加わりました。
彼ら12人は共謀して計画を企て、アメリカで裁きをまぬがれた極悪人ラチェットに「死刑」を執行するために、この列車に乗り込んだのです。
現場に残された手がかりと犯人の誤算
彼らの当初の計画では、「犯人」は外部から列車に乗り込み、ラチェットを殺して列車から立ち去った「女のような声をした小柄な色の浅黒い人物」と思わせるように仕組まれていました。
しかし積雪により列車が止まってしまったため、計画の一部が実行できなくなり、別の方法で捜査を混乱させなくてはならなくなりました。
現場に落ちていた「パイプクリーナー」と「ハンカチ」は、事件をややこしくさせるために、わざと落としたものです。
パイプクリーナーは、アーバスノット大佐に嫌疑がかかる品物でしたが、彼のアリバイは強固で、アームストロング家との関係を立証することも困難でした。
同様に「H」の頭文字のハンカチは、ドラゴミロフ公爵夫人に嫌疑がかかる品物ですが、彼女は社会的地位や確かなアリバイなどから、盤石な立場にありました。
真っ赤なキモノを着た女も、捜査を攪乱させるため(キモノはアンドレニ伯爵夫人のものとポアロは推測した)。
ラチェットのパジャマの胸ポケットに入っていた時計が1時15分で止まっていたのは、偽装されたもの。本当の死亡時刻は、午前2時近く。
ラチェットが車掌を呼んで「なんでもない」とフランス語で言ったのも偽装で、ポアロに「このときラチェットは既に死んでいたのだろう」と思わせるため。実際にはまだ死んでおらず、睡眠薬で眠らされていました。
ラチェットの複数の傷口が多種多様だったのは、12人の人物の手によって、それぞれに傷つけられたものだったからです。
ポアロが焼け残った手紙の一部から「デイジー・アームストロング」の文字を見つけ出したことも、彼らにとっては大きな誤算でした。
それがなければ、彼らとラチェットを結びつける事実は、どこにも存在しなかったからです。
ポアロが選んだ真実
ミセズ・ハバードはラチェット殺害計画のすべてを告白し、犯行を認めます。そして「自分だけを犯人にしてほしい」とポアロに懇願します。
ポアロは国際寝台車会社の重役であるブークに同意を求めたうえで、犯人は外部から侵入した人物であり、犯行後に車外に逃げ去ったとする「第一の説」を採用し、この事件から手を引きました。
真相を知るのは、列車に乗っていたポアロと関係者たちだけ。いずれ事件は警察の手に渡ることになりますが、そこでは「ポアロが選んだ真実」が「事実」として処理されることになるのでしょう。
感想(ネタバレ有)
雪に閉ざされた列車という密室で起きた殺人事件。
名探偵ポアロの推理によって明かされたのは、一見無関係に見えた乗客たちが、実はひとつの悲劇を共有していたという驚くべき事実でした。
彼らは皆、かつて「アームストロング事件」と呼ばれる誘拐殺人によって人生を狂わされた人々。そしてその元凶である男――ラチェット(本名カセッティ)を、“復讐”という名のもとに、12人で刺し殺した。それが真相です。
この物語が問いかけるのは、「正義とは誰のものか」という根源的なテーマです。ポアロは事件の真相を突き止めながらも、“真実”を語ることを選ばなかった。
ポアロが選んだのは、たしかに法による正義からは外れた判断かもしれません。けれど、人々の喪失と悲しみ、国家が果たせなかった裁き、そして「共に責任を分かち合う」という形で導き出された罪に対して、彼は“人の情”でもって答えを出したのだと思います。
この作品が発表されたのは1934年。世界恐慌の余波が続き、国家間の緊張や社会的不安が高まっていた時代です。作中でも、アメリカ人とヨーロッパ人の価値観の違いや、階級・国籍による偏見が随所に描かれています。
そんな時代において、「法」や「国家」が信頼を失っていたことは想像に難くありません。だからこそ、人々は“共同体”としての正義にすがるしかなかった。
12人の乗客が陪審員のように一人の男を裁いた構図は、制度の空白を埋める“もうひとつの正義”として、当時の読者にも強く響いたのではないでしょうか。
ポアロの「私は裁けない」という言葉の重みが、深く胸に残ります。
この結末があるからこそ、『オリエント急行の殺人』は単なるトリックの妙を競うミステリーではなく、何度読み返しても新しい感情に出会える物語となっているのではないでしょうか。
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